- 文中に出てくる記号の意味(Ⓐ④、Ⓒ①など)
引用しました書籍等を記号化したものです。最後にまとめて書籍名等を記載させて頂きました。著者の皆さま及び関係者の皆さま、本当にありがとうございました。
世の中をよくする
Ⓐ④ 世の中をよくするというのは、まず一番に立派な子供を育てるということです。一人一人の人間が立派にならないで、どうして国がよくなるんですか。こんな簡単な理屈にどうして目をむけないのか理解に苦しみます。
Ⓐ③ ・・・いまのお母さんは、子どもを立派にしようということが間違っているんですね。子どもを立派にしようというのは、塾に通わせていい成績を取って、いい学校に入らせるのが立派だと思い込んでいるところに間違いがあるのです。そうではなくて、世のため人のためになる立派な人間を育てるということなんです。
そのつもりで子どもにいのちを伝えていくわけです。そのためには、まず親が立派な生活をする。それを子どもに見せて子どもに伝えていくというのが、夫婦の本当の姿だと思います。そうすれば子どもは立派に育ちます。
それを間違えてしまって、夫婦バラバラ、けんかはするし、好き勝手な生活ばかり滅茶苦茶やっておいて、それで子どもだけはいい学校に行かせようとする。それではいのちが伝わらないということです。
幸 せ
Ⓐ③ 「はたらく」という言葉があります。外国人の考えでは、働くことは「労働」ということになりますが、日本人は「労働」という考え方をしてきませんでした。働くというのは、「はた」つまり周囲の人々を、「らく」つまり楽にする。周りの人を幸せにするということが、日本人の「はたらく」ということなのです。自分のことよりも、先ず周りの幸せを考える。これはすばらしい生き方だと思います。
Ⓐ④ 日本人は・・・自分の我欲ではなくて、神さまをはじめ、周囲の人々を幸せにすることによって、自分も幸せになるという、素晴らしい生活の知恵を持っておりました。
Ⓐ③ ・・・今は国のことよりも個人の幸せということを第一に考えるようになっていますが、これは逆だと思うのです。国の幸せがあってこそ、国民の幸せがあるのです。国のことを考えないで、国民の幸せというのは存在しない。これは本当のことだと思うのです。
Ⓐ③ ・・・現在の人間は、特に戦後の日本人は、外国から入ってきた理屈の教育で<✎>、人のことよりも自分の目先の欲だけで生きるという我欲の生活をするようになったため、現在のような乱れきった世の中になってしまったのだと思います。人の幸せのために生きるなどと言うと、そんなことでは今の世の中は生きてはいけないという人がたくさんいますが、これはまったく逆だと私は思います。
神社でも、ただ神さまをお悦ばせする祭りだけを、繰り返し繰り返し行っておりますが、その結果、春日大社は千三百年たった現在でも、祭りは続き繁栄しています。これこそ人間の生きる道を、神社の祭りは示していると私は思うのです。
<✎>Ⓐ④ 民主主義とか自由とかいうことをはきちがえ、
Ⓐ② 何かしようと考える最初に、儲けてやろうとか、有名になろうというような我欲のこころでものを作ると、それはどんなに優れた最先端技術であっても、どんなに素晴らしいものであっても、環境破壊を起こしたり、人を害するものに変わってきたりします。・・・こころからものが出てくるのですから、最初の心が「皆を幸せにしよう」という思いで作れば、結果はよいほうに向いてくるのです。
Ⓐ③ ・・・人の幸せのために生きるというのは口で言うのはやさしいけれども、非常にむずかしいことですね。
医者の時代のことですが、こちらでは患者さんが喜んでくれるだろうと思ってやっていたことが、患者さんは全く逆のことを考えていたということもたくさんありました。ですから、簡単に人の幸せのために生きると言うけれども、そう簡単なことではないのです。相手と本当にひとつにならなければ、相手の気持ちというのはわからないものです。
以前にボランティアの話もしたことがありますが、こちらは悦ばれると思ってやったことが、相手はそうではなくて、かえってその人の重荷になっていた、というようなこともありました。ですから、人の幸せのために生きるというのは、非常にむずかしいことだと思います。
でも、むずかしいからこそ、それが人の生きる道ですね。やさしいのなら人生ではない。それでは動物と同じです。自分の欲のために生きているのは動物です。人間だけが自分以外の人のために生きる。人の幸せのために生きることができるのです。
感 謝
Ⓒ① 作家の三浦綾子さんがこんな言葉を残しています
九つまで満ち足りていて
十のうち一つだけしか
不満がない時でさえ、
人間はまずその不満を
真っ先に口から出し、
文句をいいつづけるものなのだ。
自分を顧みてつくづくそう思う。
なぜわたしたちは不満を後まわしにし
感謝すべきことを先に言わないのだろう
この言葉は、宗教に関係なく、多くを与えられ満ち足りた私たちに対する、ごく自然な感情行為なのではないでしょうか。
神さまに感謝するといっても、私たちに何ができるのでしょうか。「ありがとうございます」という感謝の言葉を、ただ言うのみではないでしょうか。そして生命ある毎日に感謝し、与えられた生命を無駄にすることなく、一生懸命生きる。私たちができるのは、それだけです。
生命があるだけでも、ささやかな日常を送ることができるだけでも「有り難い」ことで、ありがとう、感謝の対象となるのです。
感謝が先。願い事はあと。感謝すれば、感謝するべきことが引き寄せられ、集まってきます。
神さまに捧げるべき言葉は、まさに、「ありがとうございます」です。
生命あることをありがとう、商売をさせてもらえていることをありがとう。多くの方に買っていただけている、世の中の役に立つ商品やサービスを生み出せていることにありがとう・・・。
「ありがとう」を伝えるべきことは、たくさんあります。
Ⓒ① まず「ありがとうございます」と「よい」ことも「悪い」ことも関係なく、与えられた一切のことに、物に、人に感謝することです。
「よい」「悪い」は、ある時間と空間のなかでのよし悪しです。「本当につらい。なんて運が悪いんだ!」と思っていても、あとになって「あのときは大変だったけれど、振り返ってみると、あの経験をしていてよかった」と思うことは多いもの。
今はよいと思っていても、時間がたてば悪いことになるかもしれないし、今、悪いと感じることも、よいことの前触れかもしれません。
よい・悪いとか、成功・失敗といったことは、すべて相対的なもので、そのときだけ、自分だけの評価では、そのことの本質がわからない場合もあります。
大切なのは、「よい」ことも「悪い」こともすべて「ありがとうございます」と認めることです。
自分にとっての不足や不都合ばかりを数えていては、神さまの力は入ってきません。すべてを感謝して、受け入れることが、本当の「ありがとうございます」なのだと思います。
Ⓐ④人間というのは認められ感謝されるといちばんうれしいですね。・・・「あなたはすばらしいな」と認められ、誰でも「ありがとう」と感謝されるとうれしい。
Ⓔ① ・・・日本では、「言葉にも魂が宿る」と考え、その言葉の力や魂は「言霊」と呼ばれていました。そのためにまずは相手を誉め、感謝することから始めようと、古代から語られていたわけです。
じつは、これは現代社会においても、人間関係の「コミュニケーション・ツール」として立派に通用します。例えば、会社のなかでも、相手の悪いところばかりが目につき、相手に対する批判や不服から話す人がいます。たしかに、つい現状に対する不平不満や、上司・同僚・部下に対する愚痴をいいたくなる気持ちはよくわかります。しかし、このやり方では、組織内の人と人とのコミュニケーションが円滑にすすむことはあり得ないでしょう。
何より問題解決をしようと思うのであれば、不平不満を口にする前にやることがあります。
まずは相手を誉め、そして感謝し、それから頼み事をする――。このコミュニケーション術は日本人の言葉の使い方の基本となっていて、じつはこれが相手の立場を重んじる姿勢に繋がっていたのです。・・・
実際に私自身も、神道の「ポジティブシンキング」による方法で、会社の人間関係や経営が「うまく行くようになった」という人をたくさん知っています。
相手に通じる言葉を考えるときに、一番優れた方法は、最初に相手を誉め、そして自分自身も感謝の心を持ちながら、相手の心を動かしてゆくことです。
Ⓐ①人間で一番嬉しいのは認められるということでしょう。一生懸命やったのを誰も認めてくれなかったら、これほど哀れなことはないでしょう。力が出てこないですよ。歌手だってみんなで大騒ぎするから歌うことができる。劇場へ行って誰もいないところで一人で歌えといっても歌えない。お客さんがいるからできるんでしょう。野球だってそうでしょう。ファンがワーッというから打てるんで、野球場に一人もいないところで打てといっても打てない。認められるということがエネルギーが出る原則ですね。そういう仕組みになっているんです。
・・・
人間は人に褒められ感謝することによって、実力以上の力を出せるものです。これを男女の関係に当てはめると、さらにわかりやすく、そして興味深くなりますね。男は女房に褒められ認めてもらいたくて一生懸命に働き、そして褒められると喜んでもっと認めてもらおうと頑張ります。他から認められて嬉しいのは男も女も同じですが、男性はなかなか自分自身をすばらしい男性であると認めにくいのに対し、女性は自分自身を美しいと認める能力が強い。つまり女性は自分自身と男の両方から認められる、ダブルパワーで生きていますから、当然のことながら男よりパワフルに生きることができるのです。美しい、魅力的だと賞賛される女性がさらに美しく、そして魅力的になっていくのは、周囲からのパワーと自己パワー、その相乗効果ですね(笑)。
Ⓐ① ・・・人間の健やかな体は、いい心、健康な心を持たない限り出てこないんです。ブーブー言って、不平、不満を言っていると決して健康な体は出てこない。自然はそういう仕組みになっているわけです。だからまず感謝して、健康な心を持ちなさい。
・・・
ですから、健康になりたかったら細胞を認めて褒めてやりなさいと言うんです。無数の細胞一個一個におまえはよく働いてくれるね、すごいね、おかげでおれは健康だ、ありがとうと認めてやったら、細胞がエネルギーを出してくれるよと言うんです(笑)。
それを認めないで、自分の体だと思って一つも感謝しない。だから細胞が怒って病気になるんですよ。
Ⓘ①人間には60兆個もの細胞があります。そして、それが調和をとっています。だから健康に生きることができるのですが、調和を保つのが感謝です。「貪・瞋・痴」によって調和が乱れると病気になるのです。
日蓮宗の尼僧さんで瀧本光静さんという方がおられます。その方が講演で次のようなお話をしておられます。
ある女性のお話です。その女性は大きな交通事故にあって右腕を切断するような大けがを負いました。お医者さんは「切断しなくてもいいが、完全に腱が切れているから腕は一生動きませんよ。動かない腕をぶら下げていると体に余計な負担がかかり、頭も痛くなります。それが我慢できるならそれでもいいですが、総合的に判断すると切断した方がいい」と言われました。
誰しも切断するのはいやです。一生懸命、左腕一本で生活できるように訓練しました。そして、いろいろなことが左腕だけでできるようになりました。字も書けるようになりました。体のだるさもどうにか我慢できました。ところが、外出のとき運動靴を履くにも片手では紐を結べません。左腕一本ではむずかしいことが日常生活の中にいっぱいありました。それでだんだん落ち込み、ついには引きこもりのような状態になってしまいました。外に出るのが嫌になってしまったのです。しかし彼女は、本を読むのが好きで、家にこもってずっと本を読んでいました。たまたま出会った本に「この本を読んでいるあなたの体のどこかが痛かったり、悪かったりしたら、それを恨むのではなく、そうではない場所に感謝をしてみてはどうでしょう」と書かれていました。そこで気が付きました。〝自分は車が大爆発するような大事故に遭ったのに、右腕が使えなくなるだけですんだ。ありがたいな〟と思えたそうです。その次に〝この本が読めているのは左手があるからだ。眼が大丈夫だったからだ。運動靴が履けないと嘆くのは、履ける足が残っているからだ〟と、だんだん物事を前向きに感謝の目で見ることができるようになったのです。それから毎晩、自分の体に手を当てながら御礼の言葉を言い続けたそうです。「左腕さん、残ってくれてありがとう。南無妙法蓮華経。心臓さん、止まらないでくれてありがとう。南無妙法蓮華経」、右腕に向かっても「右腕さん、長い間私の人生を支えてくれてありがとう。ゆっくり休んでね。南無妙法蓮華経」と、動かない右腕をさすりながら言ったのです。そのうちに、動かないはずの右手の先が動き出したのです。それから4年間リハビリに励みました。多少不自由があっても普通に動くようになりました。お医者さんがCTを見て言われました。
「ああ、腱が枝分れしましたね。太い腱が切れてしまったけれど、切れた所が枝分かれしてつながり、動くようになったんですよ」
実はその〝若い女性〟とは私のことです。事故を起こして心が折れそうになりましたが、そのことで「感謝」を思い出して光を見つけました。感謝によって動かないはずの右腕が動くようになりました。
こういうことがあるんですね。〝人と人は助け合う〟とよく言いますが、体の中も助け合うのです。脳は、脳の一部分がダメになっても他の部分が助けて正常な働きができるようになるということを本で読んだことがあります。まさにそれです。
感謝によって細胞が調和して、自然に腱がついたのです。感謝は奇跡を起こします。
法律を超えた法(法律より尊いもの)=日本人の持つ倫理観
Ⓒ① 「お天道さまが見ている」。この言葉ほど、日本人の倫理観をよく表現しているものはないかもしれません。お天道さま、つまり、太陽のない世界がないように、お天道さまの目はそこかしこ、どこにでもあり、ごまかすことはできない、いい加減なことはできないという意味です。
不正経理、産地偽装、インサイダー取引、経営者の公金の横領、着服などなど、日本企業のモラルの低下は、目を覆うばかりです。法令順守が声高に言われる程、企業の暗い面があぶり出されてきています。
ここで考えてみたいのですが、「法令順守」が叫ばれる以前は、日本型経営に「法令順守」という考えはなかったのでしょうか。
そんなはずはありません。もちろん、昔も今のような不祥事はありましたが、今ほどの数はありませんでした。
それは、法律を超えた法、つまり、「お天道さま」とか「神さま」といった価値基準のなかで、自然と行動を律していたからです。
Ⓐ② 汚職でも見つからなければいい。たまたま見つかったものは運が悪い。そういう態度が見えるでしょう。見つかるとか、見つからないという以前に、そういうことを絶対にすべきでないというモラルの欠如が、現在の日本の姿でしょう。
Ⓖ① ・・・日照時間が短いことで農作物に深刻な影響があることは、今も昔も変わらない。「そりゃあアンタ、おてんとさまのご機嫌次第だよ」と農家のおじさんがいう。
そういえば、この「おてんとさま(おてんとうさま)」という言葉も聞く機会が減ったように思う。漢字では「御天道様」と書く。
・・・
私の子どもの頃には「おてんとさまに見られてるよ」とか、「そんなことをしては、おてんとさまに申し訳ない」という大人がいたものだ。悪いことや人としてあるまじき行為は、自分や周囲にというより、「おてんとさま」に対して恥ずべきことであった。大人がそういうことで子どもたちは「おてんとさま」の存在を何かしら感じとっていたのである。太陽に願いを込めることは太陽信仰となるが「おてんとさまに対して恥ずかしくないこと」とは信仰が元になった道徳であり、人としての責任感がそこにあった。昔の人は悪天候が続くことを「神さまを怒らせてしまった」と考えた。つまり自分たちに責任があると解釈していたのである。
この言葉はむしろ今の大人たちにこそ理解して欲しい。社会でどう評価されるか、周囲にどう見られるか、ということ以上に、「おてんとさま」に恥じない生き方をしているかどうかのほうが重要ではないだろうか。
日本には本当にいろいろな神さまがいらっしゃるが、太陽を神さまと考えることは単純明快、とても親しみやすく、現実的でもある。
Ⓖ①道徳という言葉がある。この場合は人の行うべき道のことである。・・・
道徳は社会的な規範であるが、個人の判断力やその人の人間性だったりもする。成文化された法律とは無関係の「あるべきこと」である。マナーやエチケットにも通ずる。・・・
「人の道を逸れる(それる)」「道理をわきまえる」などの「道」の基本は正しさである。論理ではない。理屈抜きで「ダメなものはダメ」という、至極簡単な道である。神さまに恥じない人の生きる道筋として、道徳を重要視してほしい。
心遣い
Ⓔ① 日本人は人間の心にも大切な神様がいらっしゃる、と思えるからこそ、相手に対する「おもてなし」の心を抱く。目には見えないけれども、自然の存在のありとあらゆるところに「まつる」心と空間があり、その雰囲気を察して、相手に対する心遣いができる―――。これが、日本人の最大の特長です。
これこそが世界に誇ることのできる「日本人の心」なのです。日本文化は、目に見える科学や論理、一神教的な何か一つの超越した価値観だけが正しい、と考える西欧型の価値観とは異なります。狩猟民族の大陸文化のように、極端な自己主張をしなくても、「共存共栄型」の社会や共同体の中では、相手が自然とわかってくれる「察する」という文化があります。
日本人には、取り立てて相手が口に出していわなくても、自分が「察する」、「気づく」という心の手法を使って、何かをしてあげたいという気持ちを抱く人が多いものです。これが世界でも高く評価されているのです。
つまり、「目には見えなくても、思いやりや、相手をいたわる心はわかる」というのが日本人であり、これは、キリスト教の神(God)とは異なる神(kami)を大切にするところから来ています。
Ⓐ④ 我々日本人の遺伝子の中には、祖先から伝えられてきた歴史の記憶が入っておりますから、現在でも日本人ほど相手のことを考える民族は、世界のどこにもいないと思います。
外国に旅行された方はおわかりかと思いますが、レストランやホテルでも、外国ではサービスが悪く、何か頼むとすぐチップを渡さなければなりません。しかし日本ではチップなどは要求しませんし、お客さんに心からサービスしています。外国ではモノを作ると、ただ優れた製品を作ろうとしますが、日本人は製品が優れているというだけでなく、それを使う人がいかに使いやすいかというところまで考えてモノを作っています。
先日も、ある人がフランスに行ってタクシーに乗ろうと思って車の前に立ったけれど、ドアが開かずとまどったそうです。日本では、タクシーは自動的にドアを開けてお客さんを乗せ、また自動的にドアを閉めますが、外国では乗りたければ自分でドアを開けるのは当然と考えており、日本のタクシーのようなサービスは全くありません。これらの例を見ても、祭りに見られるひたすら神をお喜ばせする日本人の伝統が今でも残っているんですね。これが唯一の救いだと私は思います。
勤 勉
Ⓔ① ・・・日本人は、国際的にも国内的にも、「世界一勤勉な民族である」と見られ続けています。
事実、日本は戦後の荒廃から立ち上がり、世界の先進国入りを果たしました。高度成長期を始めとする日本経済復活の大きな要因は、日本人元来の「勤勉性」によるものでした。
常に目の前の仕事に打ち込み、一所懸命働くことが、世界も驚く日本人の「長所」であるのは間違いありません。
しかし、いま日本人からこの勤勉さが徐々に失われつつあります。一部の戦後の日本人は、「労働は悪」と位置づける西欧的価値観を教え込まれ、就業規則で「時短」を定められるなど、日本の古き良き伝統的価値観まで変わっているせいです。
神奈川県小田原市にある報徳二宮神社は、二宮尊徳(金次郎)という勤勉な人物が神様として祀られている神社です。江戸時代後期に生まれた二宮尊徳は、「この秋は雨か嵐か知らねども今日のつとめの田草とるなり」という和歌を詠んでいます。
この和歌は、「秋の収穫物が、大雨や台風が来て危なくなっているが、いまは黙々と目の前にある田の草とりに勤しむことが大事だ」という真面目な労働観の大切さをあらわしています。
ところが、キリスト教では、『旧約聖書』の中の「創世記」で、アダムが禁断の知恵の木の実を食べた罪で、アダムとイブは、エデンの園という「楽園」を追放され、アダムには「労働の苦痛」を、イブには「出産の苦痛」を強いるようになったという逸話が書かれています。
つまり、キリスト教では、「労働」は罪を犯したことによる「罰」なのです。
一方、日本の古事記における天照大御神は、神話に「忌服屋(いみはたや)に坐(ま)して、神御衣(かんみそ)織らしめたまふ」と記されているように、熱心に働く神として描かれています。
日本の神話では、もっとも貴い神様である天照大御神が、高天原で田を作り、稲を植え、また、自ら機織りを行い、「神御衣」を作られているのです。
すなわち、貴い神ですら自ら働き、そして日本人もまた共に働くという「共働の国」が、そもそもの日本の国柄でした。
キリスト教徒の多い西欧社会が「労働は罰」とする労働観を持っているのに対し、日本神話を自らの生き方の宝鑑<✎>としてきた日本人は、「神と共に働くのが良いこと」とする価値観がありました。
ここに、日本人の「美しい労働観」があるのです。
<✎>宝鑑(ほうかん):手本
清 潔
Ⓓ① どんなに古い神社でも、人がきちんと手を入れているところにはいつもきれいですがすがしい空気が漂っています。掃除がきっちり行き届いている。
神社に行くと気分がいいのは、空気がきれいだからです。
気分がいいとわかってくると、自分が日々生活する環境にも同じようなすがすがしさを求める気持ちが自然と湧いてきます。いつしかそれは掃除や片づけを「面倒くさいな」と思う気持ちを超えるのです。
・・・「神さまがいらっしゃる」と思えるようになってから、たしかに私の中で身の回りの整頓や清潔さへの意識は劇的に変わったと思います。
日本人がきれい好きであるルーツにも、神さまがいらっしゃるんです。
歴史を重ねていく
Ⓑ① ・・・伝統を守っていくということは、ただ古いものを守っていけばいいというものではない。古くから伝えられたものがあり、各時代で引き継がれていった結果、今があるのです。
じつのところ、伝統はそのままコピーされ、次の時代にわたされてきたわけではありません。
時代が変われば、人々の習慣も意識も変わっていきます。ですから、古来伝わる本質は大切にしつつ、その時代のものを取り入れ、それを伝統の上に積み上げて次の時代にバトンタッチしてきました。
そうでないと、伝統は形骸化し、結果的に継承されなくなってしまいます。
逆説的にいえば、昔のものをそのまま継承していくことが伝統ではないということです。
神社でいえば、祭りを中心に継承すべきものがさまざまあり、祭礼儀式など、同じ形で伝えていくことそのものに意味がある。たしかにそれはそのとおりなのですが、いっぽうで、伝統として伝わってきたもののなかには、その時代のあるべき姿というものもあると思うのです。縄文時代と平成の今はちがうのですから。
いわば、歴史を顧みながら、その上にさらに歴史を重ねていく。そういうことをやっておかないと、伝統というのは絶対に発展していかない。輝いていかないと私は思うのです。
困難などとの付き合い方
Ⓓ② ・・・なんでも証拠とか理屈とか並べて複雑に「なんでこんな問題がくるのだ?」と考えるよりも、「ああ、これは成長のために神さまがくれたテストに違いない」と、シンプルに思ったほうが、困難に対しても肯定的に受け入れることができる・・・。
とにかく泣いても笑ってもそこにある問題は消えないのです。
消えないのなら受け入れて、それを前向きな材料にしてしまいたい。そのために「目に見えない存在」を対象にすると、根拠がなくても納得できるのです。
だから、「神さま?」と、すんなりそう思えない人がいてもよくて、そんな場合は、守護霊様なのかご先祖様なのか、はたまた、自分自身の中にある「もっと成長したい」という潜在意識みたいなものが、問題をくれたのだと思っておけばいいです。
とにかく、それがいいです。理屈なくそう思って欲しいな。
陰 徳
Ⓐ② 私は小さい頃よりおふくろから陰徳、陰徳と耳にたこができるくらい聞かされて育ちました。友達のために一生懸命にやって、友達が何も感謝してくれないこともありました。その話をすると、「それでいい。それが陰徳です。それが次に伝わっていくから、それはそれでいい。むしろ感謝されない方がいい」とまで言われ、わけもわからず、そんなものなのかなと聞いてきました。その意味がいまこの年になってようやく分かってきたのです。
普通、人はこれだけ尽くし世話をしたのだから感謝してほしいと思うことがよくあります。しかし、そうすると、もうそれは陰徳ではなくなってしまうのです。感謝や見返りを一切求めない。人の悦ぶことをしていれば、それが一番いいのです。こういうことの積み重ねが陰徳になり、やがて子々孫々にまでその余徳が及んでいくのです。
だから人間の徳のなかでいちばんすばらしいのは、陰徳だと私は思っております。
この陰徳というのは、一般にどういうことかと申しますと、大きな努力をして小さな結果を求めなさいということです。それが陰徳です。そうすると、自分の努力に見合うような結果は得られないかもしれない。しかしそれが陰徳となって、子供や孫や子孫に伝わって、子孫が繁栄するのだと思います。逆に、小さな努力で大きな結果を求めたら滅びるでしよう。人間の徳のなかでいちばん大きな徳は陰徳です。神さまはそういうものを人間に与えてくださったのだと思います。
Ⓐ③ ―――陰徳というのは、人に知られずによい行ないをすることですか。
そうですね。浦島太郎が、子どもたちがいじめている亀を助けるというのは、助けたからといって、自分が何か見返りを求めるということではない。ただかわいそうだから助けてあげただけです。何ら見返りを求めない。そうしたら亀がお礼にと言って竜宮城に連れて行ってくれたというお話です。
つまり、見返りを求めない陰徳の生活をすると、神さまの世界に近付けるという、人間本来の生き方が語られています。
出所
Ⓐ①神道のこころ 葉室頼昭(春日大社宮司 医師) 春秋社
Ⓐ②神道[徳]に目覚める 葉室頼昭(春日大社宮司 医師) 春秋社
Ⓐ③神道と[うつくしび] 葉室頼昭(春日大社宮司 医師) 春秋社
Ⓐ④神道と日本人 葉室頼昭(春日大社宮司 医師) 春秋社
Ⓑ①神道のちから 田中恆清(石清水八幡宮 宮司) 学研
Ⓒ①なぜ儲かる会社には神棚があるか 窪寺伸浩 あさ出版
Ⓓ①神社のおかげさま 和田裕美 亜紀書房
Ⓓ②神社が教えてくれた人生の一番大切なこと 和田裕美 マガジンハウス
Ⓔ①本当はすごい神道 山村明義 宝島社新書
Ⓕ①日本人なら知っておきたい神道 武光誠 河出書房新社
Ⓖ①神道的生活が日本を救う 蔵原これむつ 講談社
Ⓗ①だから日本は世界から尊敬される マンリオ・カデロ 小学館新書
Ⓘ①生かされていることに感謝しましょう 日蓮宗大乗山法音寺<インターネット>